コロナ禍は弾丸のない空気飛沫戦争

= 菅首相と小池都知事の後手後手の人災 =

 昨年の年明け頃から世界中に「コロナ禍旋風」が吹きまくり、地球規模でみると、今年2月9日現在、コロナ感染者1億629万人、コロナ死者232万人。

 今年1月26日(朝日)でみると、世界のコロナ感染者トップ3は、①米国2512万人(死者41万人)、②インド、1066万人(同15万人)、③ブラジル884万人(同21万人)。

 日本国内だけに限ると、コロナ感染者40万人、コロナ死者6000人強(うち東京だけの死者1000人を越す)──となっている。

 昨年4月7日、日本は遅まきながら「コロナ緊急事態宣言」を出した。この日まで日本国内の感染者は5179人、死者109人。

 この時、日本にもやがてコロナ禍旋風がやってくる、ととっに反応した私は、昨年4月末に「コロナ禍は未知の世界の日本第三次戦争」とサブタイトルの見出しをつけて、全国の主たる県庁、自治体に論文を郵送した。

 これは自分で言っては笑われるが、「ジャーナリスト・村井の凄味」である。この世界の生涯のうれしくない特ダネだ。

 1年前から日本で「コロナ禍は戦争である」と発言、主張した人物が当時1人もいない、と思われる。ごらんの通り、この日本列島は今、戦場である。

 

 私がなぜ「日本第三次戦争」と記したかというと、「歴史に学ぶ」とか「歴史は繰り返す」という平凡なカンが働いたからです。日本には江戸時代前後も流行はやり風はあった。

 世界規模で流行風をつまんでみると、大正7年(1918年)から大正9年(1921年)にかけて猛威をふるったスペイン風(スペインインフルエンザ)で、世界人口の3~5%に当たる5000万人以上が死亡した。

 このスペイン風は第一次世界大戦と重なり、大戦が終戦の要因ともなった。日本でも大正7年以降、当時の日本人の人口5500万人のうち、約半数が感染して1%近くが死亡(これな大正12年に発生した関東大震災の死者10万人の5倍以上の犠牲)

 そして、これは流行風ではないが、日本全体を巻き込んだ有史以来最大の不幸──日本が侵略した第二次世界大戦で日本人約310万人(うち民間人30万人)が死亡した。

 10年前、福島県の東京電力原発を中心とした東北津波地震で1万8000人余死んだ。今も行方不明2000人余で合計2万人を越えたが、今のコロナ禍はエンドレステープのように感染者、死者は増加中だ。

 世界の二つの大戦を経て、私はサブ見出しに「コロナ禍から1年もなるのに、コロナ禍戦争の恐怖を訴える社会になっていない」と他紙にも訴え、さらの昭和20年の敗戦以来、日本国民は極楽トンボで平和ボケだ、とパンチのきいた活字を並べた。

 私がコロナ禍と戦争を同時に関係していることを目にしたのは、今年の令和3年2月号の月刊誌「文藝春秋」の表紙見出し特集「第二次コロナ戦争」という活字で初めて本格的に登場した。
(昨年、夏ごろには週刊誌で「コロナ戦争」の文字があったかもしれないが、私のように、昨年~年明けからコロナを戦争と定義した活字は見当たらない。)

 あらためて「戦争」とは──人間のすべての不幸と涙を背負う。その2月号の表紙には「これは天災か人災なのか」とサブタイトルを付けているが、私は人災と見ている。

 最近、この10年、大手の新聞、テレビよりも週刊誌のスクープに注目している。日本の新聞、マスコミ、テレビはユルフンでダラカンだからだ。自由な国だが忖度が障害になっている。

 確かに冒頭に記したように、①アメリカ、②インド、③ブラジル──に比べると、日本のコロナ禍死者は6000人を越えただけだから、日本の政界、知事連中も「世界の中で日本は大したことはない。安全だ。」とタカをくくっていたこと間違いない。

 それを証明するのは、私が昨年4月に発表した論文を読むと明らかでしょう。菅首相と小池都知事コンビは、お互いに責任をなすりつけてキャッチボールして時間つぶしをしていた。

 一方で政府・菅首相と都・小池知事が当初から「政局」にからませていることに、私はハラを立てているのです。

 菅と小池は2人の会談を秘密にして、国民(=報道機関)に成り行ききちんと説明しない「不透明」は許されない。この手法は安倍前首相、菅、小池に共通している。

 おまけに政府と都庁は国民に「三密」をことさらに強調して、中小企業の居酒屋などをいじめている半面、昨年の暮や新年には自民党幹部は予想されたことだが、東京・銀座のクラブでの酒盛り、女盛り。国民、庶民の苦しんでいるコロナ禍はそっちのけ。

 私の長い国会記者の経験から、自民党系の国会議員は口先だけのコロナ禍防止スピーチ。自分たち政治家は別格とみており、庶民のコロナ死亡は日常の頭の中にはない。今後も「三密」の政治家が高級クラブに限らずあちこちで出没して週刊誌のエサになろう。

 私は佐藤栄作首相以来、ロッキード事件、リクルート事件、佐川急便事件‥‥その時代の大事件を扱ってきた記者だが、上記の事件はほとんど「死者」を増大させるような問題ではなく、「政局にまつわる権力闘争」だから、まだ許せる。

 ところがコロナ禍死亡は人命に関わり。人間の死は二度と再生することはない。

 私が昨年4月に論文を書いた頃は、日本の政財界やマスコミは「経済かコロナか」──と迷っている記事が多かった。私には迷いはなかった。

 「経済」はそれによって沈むこともあるが、再生もある。死んでは全てが終わりである。それが私のわかりやすい哲学。小学生でもわかる。

 

 その昔、青島幸男参院議員(後の都知事)は当時の首相に向かって「あなたは財界の“男めかけ”だ。」とブッて物議をかもしたが、この全伝統は今も消えない。

 菅は自分を首相にしてくれた二階幹事長を神のようにあがめたてまつり、財界が強行に押す「GOTO・トラベル」にぐらつき、遅いゴーサイン。(これも失敗政策でコロナ患者急増。)

 経済ばかりにしがみつき、国民の命は二の次にされてきた、という怒りは消えない。

 同じく小池も国民の命をあとまわしにして、菅と綱引きし、「コロナ禍は政府がやるべき仕事で、都は政府に従えばよい。」という逃げの手で他人事のようにみえる。小池にはスピード感がない。コロナ禍とは急ぐ命の問題だ。

 都知事は昨年3~5月は紙芝居のような4文字、熟語を毎日、テレビにかざして横文字を並べて平然。小池のココロはコロナ禍の命よりもオリンピックに重点を置いている姿がすけて見える。

 この風景は小池の次の都知事選を意識した自己PRにすぎない。都民はそれを見破れないでいる。

 9~12月には日本医師会の中川俊男会長らが「コロナ禍の入院先もなくなってくる。」と叫んでいるのに、首相の都も全て無視して今では燎源の火。

 12月から今年に入って入院できずに「コロナ難民」となって自宅待機の死亡が続出している。

 そして、テレビ、新聞を中心にマスコミは「今日、コロナ患者、何人発覚して、何人死んだ。」と毎日、数字だけ並べるだけで、時の政府と都知事を責める言葉がないのは見事だ。

 その中で菅と小池のドタバタにあきれた大阪府の吉村知事や北海道の鈴木知事の「早急の動き」は見事。途中から埼玉県大野知事の力量が光る。

 国民が菅や小池にだまされているのも、日本民族らしい人柄、気質が出ている。「和を以て貴しと成す」という聖徳太子の言葉は、この場合、通用しない。

 話は飛ぶが、最近、歴史家で有名な半藤一利氏が92才で亡くなった。氏は「歴史と戦争」(幻冬舎新書)の中で「第二次大戦は日本が侵略戦争をしてきたのに、いつの間にか日本は戦争被害者で、敗戦を自然災害のように見せてきた。」と皮肉ったが、私も同感だ。

 今のコロナ禍の日本急増は菅や小池が悪いのではなく自然災害のようなもの、という空気が漂って国民の反発は弱い。敗戦直後の「一億総ざんげ」(大宅壮一の造語)に似ている。

 政府とマスコミの目に見えないコロナ禍操作に私はあきれているのだ。こんな世の中になるとはトホホ‥‥である。

 私もマスコミ出身だが、今のマスコミ陣の「忖度」はひどすぎる。真のマスコミジャーナリズムは格闘技でなければならない。

 毎日死んでいくコロナ禍の無策、無戦略をストップさせる「首相倒閣」運動、「都知事打倒運動」に、なぜ一言も発しないのか、不思議だ。ここまで日本列島を苦しめた首相、都知事を引きずり下すべきである。 

 若い学生はどうした。なぜ行動しないのか。学生や若者は学生や若者は新宿、渋谷、池袋、新橋、神田などで酒を飲んでいる場合ではないだろう!

 昭和18年10月の戦争のための「学徒動員」に比べれば、今の「コロナ禍戦争」は序の口の序だが、令和のコロナ禍は日本の日常戦争になっている。

 失業者1000万人、倒産1000社以上、女性の失業、親子心中、小中高の自殺者急増、医師や看護師不足による過労‥‥。

 コロナ禍のため、親族、親子さえも会えない家族の孤独死、遺骨さえ拾うことを許されない悲劇。まさしくコロナ戦争は人間を無視した戦争なのである。

 令和3年1月、TBSテレビの土曜夕方番組でコロナ禍「報道特集」の中で有名なジャーナリストは「昨年夏から秋にかけて政府と自治体はコロナ禍の討論の時間が十分あったのに、何をしていたのか。今頃になって“コロナ禍難民の入れる病院がない”とは国の政策はムチャクチャだ。」(元NHK・木村太郎氏)

 外国からワクチンを入荷しようというが、入荷できなかったらどうするのか。(これまで日本は治験するのに10年かかるという医師の話もあるが、外国の治験だけで急に日本にもワクチンを入れるという「前のめり」は安全なのか。素人の私でもハラハラする。今後、ワクチンはさらなる難題として日本人の前に立ちはだかるであろう。

 年が明けて「緊急事態宣言」をいつ解除するか、政府はなやんでいる。1月7日説は飛んで2月7日説、そして3月7日説、やがて4月‥‥6月説まで出てきた。こんなデタラメ政府につき合ってられないので、私はこの緊急事態宣言には、あえてほとんど触れないできた。

 首相や都知事がもっと早くからコロナ禍対策をやっていたなら、これほどひどい地獄の日本にならなかったと思う。

 今の日本列島風景は敗戦時の空気と変わらない。国民は路頭に迷っている。今だって66%がコロナ菌の出所わからず、コロナ禍のエンドが見えない。

 続いて「変異ウイルス」も世界に登場しているから、このコロナ戦争は、これから何年続くか不明。

 繰り返しになるが、私は昨年4月の原稿でサブタイトルは「コロナ禍は第三次戦争」として、メインタイトルは「天皇が超法規で国民に協力を訴えるべし」と宮内庁にも投函した。

 国民から信用されていない首相(支持率38%、不支持47%=毎日)と小池は「朝令暮改」で国民の反応は良くない。

 私は憲法を逸脱しても天皇が「自ら国民にコロナ防止に協力して国民団結せよ。」と発言すれば、これほど国民を苦しめるメチャクチャな日本列島にはならなかったと思う。

 最近、タイでも“国王が自国にいる時が少ないなら、王室はいらない”──とまで発言する政治団体まで現れて、王室体制反対運動が起きている。

 日本だって永久に皇室が生き残るとは限らない。国民の命を守らない、日本民族を守らないような皇室は国民から消されていく運命だってありうる。

 私は右翼ではないが、私のように発言する者はいない。後世に日本が心配だから直言しているのです。

 もし、あのコロナ禍が早くから防止できていれば、志村けん(㐂劇役者)、岡江久美子(女優)、岡本行夫(元外交官)のような有名人も亡くならなかったのに‥‥残念、無念だった、と思うのは私だけではないだろう。

令和3年(2021年)2月9日
村井 実

<追伸・検証>

 私が昨年4月「コロナ禍は戦争」と断定して原稿は10カ月たってようやく、まともな記事が載った。

 令和3年に入ってから朝日新聞の1面「緊急事態宣言 後ろ向きだった政府」(2・14)、同じく朝日は2面で「小池氏の決断遅れ指摘も」(2・14)──という見出しで検証されてきた。

 朝日のエンジン発射は遅かった。なぜもっと早く昨年春から政府と都庁に赤信号を送らなかったのか。命を失ったコロナ死者たちは、日本の政治、行政の貧困を墓の下でうらんでいるだろう。

 一方、世界銀行チーフエコノミストのカーメン・ラインハートさん(1955年生まれ、ハーバード大学教授)の記事が朝日朝刊(本年2・5)に「世界経済破綻防ぐには」のタイトルで、次のように中見出しをつけている。 
「コロナ禍は『戦争』、金融危機恐れつつ今回は財政出動を」──と。戦争と名がつけば国家の総力戦である。

 上記のことを政治家も財界人もジャーナリストも深刻に理解しないで、ズルズルと「令和戦争」に突入してしまった。

 コロナ禍は政治家の不手際、タイミングの遅れで「覆水盆に返らず」。東京五輪の先は五里霧中。日本はとんでもない戦争に巻き込まれているのに国民はその重大性に気づいていない。

 政治家どもを棚上げにして、敗戦時の「1億総ざんげ」ムードにそっくりさんだ!!

令和3年(2021年)2月15日
村井 実