日本政治に翻弄された拉致事件

=横田滋さん憤死はボタンを掛け違った首相の靖国参拝=

 北朝鮮に拉致(=人さらい)された横田めぐみさん(当時13歳)の父、横田滋さんが6月5日に亡くなった。87歳。長女めぐみさんが拉致されてから43年。以来、めぐみさんと父は再開することなく無念‥‥。

 私の手元には、父、滋さんからのハガキが3枚残っている。拉致問題(事件)は政府に一本化して頼らざるを得ないから、横田さんは各首相に文句を言えなかったのだろうが、私の文を読んで、わざわざハガキをくれたのは、横田さんが賛同する部分があったからだろう───と解釈している。

 私が初めて会ったのは30年くらい前だったか。その場では居合わせた新聞記者たちは横田さんを特別囲むような雰囲気ではなく、私から意識的に横田さんに話しかけた。

 私はあえて拉致問題を避けて個人的な軽い話題にして「私は北海道出身で札幌や小樽に住んでいた時代があります。」と話しかけると、滋さんは「実は私も日銀時代は札幌に住んでいました。札幌は家族一緒で思い出が多い。」と、めぐみさんの話がはずんだ。

 それから数年後、地下鉄丸の内線・国会議事堂前駅の売店前でバッタリ横田夫妻と会った。その時の雰囲気は、これからどこかへ行く様子だったので、私は励まして別れた。

 そして3度目はどこだったか忘れたが、拉致問題はかなり社会的に有名になり、横田さん夫妻はあちこちの会場で娘さん救出のスピーチに立っていた。

 それで私は川崎に住む横田さん宅に2~3回、手紙を出した。横田さんは手まめに、その度に私あてにハガキをくれた。

 その頃の私の手紙の内容は、日本国内のマスコミ論、新聞論調とは雲泥の差で、横田滋さんの死を機に振り返ってみたい。

安倍首相は天皇に弓を引いた!

 めぐみさんの拉致問題は、まず拉致の前に敗戦の総括をすると、敗戦国は米国の連合国GHQに従わざるを得ない。

 戦後、歴代の首相は、第二次世界大戦では日本がアジア諸国に対する侵略であり、侵略された近隣の中国、北朝鮮、韓国などに謝罪しなければならない立場で統一されていた。

 戦後の佐藤栄作、田中角栄、福田赳夫らの各首相も、この路線を守ってきた。

 これに対し、中曽根康弘首相は戦後で初めて戦犯を奉る靖国神社に参拝した。しかし、靖国参拝はこの一度きりで辞めた。

 原因は「侵略された周辺国に大反対され批判されたため。」(本人談話)。この政治センスは中曽根さんらしい。国際世論を尊重していた。

 ところが小泉純一郎首相になると、靖国参拝は当然、と動いた。ここから日本は狂ってきた。

 小泉に持ち上げられた安倍政権誕生では、安倍首相は「第二次大戦は侵略戦争でなく、あれは日本を守るための大東亜戦争である。」と堂々と発言し、「戦犯といわれる軍人をごうしている靖国神社の参拝は当然。」と。

 さらに「保守、自民党議員は靖国参拝すべし。」と、自ら先頭に立ち、第二次大戦の日本国の正当性を訴えた。

 (私はこの時思ったものだ。敗戦時、日本の天皇軍国主義を全面否定して民主主義国家になり、過去の教科書を全面的に黒く塗りつぶしたのに、安倍政権誕生はあの黒塗りを否定した戦前復活じゃないか──と驚いた。)

 これに対し、日米安保(日米同盟)を結んでいるアメリカのホワイトハウスは、当時、安倍首相の振る舞いに「本気で発言しているとしたら、とんでもない。日本を見て見ぬふりしているのは、体制の違う中国、北朝鮮という共産国が日本海をへだてているから我慢しているだけなのに、敗戦国が今さら何を言うのか。」と怒った。

 (当時、私の弟もアメリカ領事館に勤務していたため、ワシントンの裏情報は全てわかっていた。)

 従って、中国、北朝鮮、韓国などは戦犯を美化して日本の侵略を認めようとしない安倍に対し、ことさら北朝鮮は「国交拒否」の態度に出た。

 (注目すべきは昭和天皇は昭和53年の靖国参拝以降、無言の抵抗で参拝をストップ。続く平成天皇、令和天皇も昭和天皇に賛同した。このことは別の論文で私は「安倍首相は天皇に弓を引いた。」と批判したが、政府もマスコミもこの私の論に黙秘したまま。私からしてみれば、安倍首相やジャーナリストの櫻井よしこは天敵である。)

日米安保をバックに「北朝鮮と闘う」安倍外交に変身

 本来であれば、小泉政権時代、安倍官房長官(当時)が首相に随行し、北朝鮮に乗り込んで間もなく日本人の拉致被害者5人を取り戻したのだから、安倍首相もその外交経験を生かして「引き継ぎ外交」をやってくれるものと私は期待していた。

 しかし、安倍外交は米国外交に隠れて、ひたすら「北朝鮮と闘う安倍外交」に変身した。

 平成19年、ガン死した私の恩師、片岡鉄哉氏(当時、スタンフォード大学フーバー研究所・特別研究員)は、私が発行する新聞(ジャパン・ツデイ)のインタビューで「安倍は何もわかっていない。これでは北朝鮮から日本人の拉致被害者は取り戻せないだろう。安倍はバカだ。」とバカを10回くらい繰り返していた。

 私はゲラ刷りを見せて「先生、こんなにバカだ、バカだと繰り返すと、シャレにもならないので、少しバカを削ります。」と了解を得たほど。

 そして、片岡氏は当時、私よりもはるかに右思想の人だったが、「こうなったら、日本は戦中の平和締結も含めて、北朝鮮に2~3兆円出さなければ拉致問題は解決しないだろう。このままでは拉致問題は凍結されたままで、やがて拉致された家族は次々と老齢化して、死んでいくのが目に見える。」(上の片岡インタビューは平成18年夏で、安倍政治の拉致救出失敗を見透かしている。私も同感だった。)

 横田滋さんが亡くなった翌日、拉致被害者親族の一人である飯塚繁雄さん(81)は、片岡氏の末尾のフレーズと次のように語った。

 「このままでは拉致家族も拉致被害者も次々と死んで、消えてくだけ。結局、国家、政治家は何もしてこなかった。」と嘆いた。

 片岡氏の予想した発言は「図星」だったが、安倍首相は令和時代に入った頃から急に北朝鮮に向けて微笑外交を始めたが、北朝鮮には「外交のがいの文字もなく」ミサイルで脅されて今日に至っている。

昔の自民党と違う突然変異の自民党

 前記したように、この拉致問題に一番近い距離にいたのは小泉首相に同行した安倍官房長官である。

 朝日は「首相在任中に50カ国以上の海外視察の新記録」と横長帯の見出しで飾ったが、この見出しに朝日の批判精神は何もない。他紙もNHKにもない。

 外国で使った微笑外交費のカネは80兆円(注・80億円ではない!)にものぼる。平和外交の保険だ、という人もいるが、無駄ガネの見本だ。

 安倍の海外視察は「その度に安倍夫妻の新婚旅行」とののしる国民も圧倒的に多い。

 外交とは相手もいることだから、自国の思うような形で進むとは私も思っていない。しかし、くどいが北朝鮮の拉致問題を解決しようと思えば、まず戦犯を奉っている靖国神社に絶対行くべきではなかったのである。拉致を解決できないボタンの掛け違いはここからスタートする。

 私も学生時代から自由主義を重んじた反共主義者だから、北朝鮮をお友達にしたいわけではない。

 しかし、相手のふところに入っていくには「靖国は御法度」なのである。戦後の民主主義は「戦犯を奉る靖国拒否」が平和の哲学になっている。安倍坊ちゃんは全く「外交」というものをわかっていない。

 日本では、古来「覆水盆に返らず」ということわざがある。日本はとんでもない首相を持ったものである。

 それを支えてきたのが自民党議員が圧倒的に多い「日本会議」なのだから、たまったもんじゃない。今の自民党は昔の自民党と違って、長期の安倍政権は「突然変異の自民党」になってしまった。

 歴史にもし、と付け加えればキリがないが、小泉・安倍政権がなかったら靖国参拝問題も浮上せず、外交は複雑化しなかったであろう。

 私のタブロイト版新聞、ジャパンツデイ、平成26年12月号のトップ記事「ポツダム宣言は日本が命乞いした受諾ですよ!」の中で、元外交官の東郷和彦氏(戦犯で巣鴨プリズンで獄中死した東郷茂徳の孫)は、次のように語っている。

 「戦争責任の村山談話は、戦後日本の最高到達点であり宝だ。安倍首相が昨年、靖国神社を参拝したことは、中国、北朝鮮を挑発する行為になりかねない。」と危惧する。安倍拉致破綻外交は、ここでも暗示される。

Jアラート警報で「地下鉄に逃げろ」はマンガだ

 時代はこれも古くなるが、当時、社会党の土井たか子代議士と中川一郎代議士(故人)の息子、昭一代議士(同)が衆院予算委で拉致問題を討論した時、昭一代議士は「北朝鮮は横田めぐみさんを拉致したのは間違いない。」と迫った。

 土井さんは「そんなことはない。うわさで発言してはダメ。」とやり返した。これに対し昭一氏は「日本の政府、警察当局の刑事局長が“証拠がある”とまで発言している。」とたたみかけた。

 そうした明白な刑事局長の発言なのに、北朝鮮系の血を持つ土井さんは振り切った。公平にみても、マスコミは土井追及に甘かった。

 だから拉致の初期捜査が遅れたのも、政府と野党の責任大。特に政府が安倍政権以前からウワサされていた拉致事件をないがしろにしてきた責任は最大の失敗だった。

 やがて土井さんは、社会党委員長、衆議院議長にまで登りつめ、その前後の国政選挙で土井さんの勢力は圧勝したため、マスコミは「山は動いた」という土井さんのキャッチフレーズを多用して、キャッキャッと騒いでいた。

 私はあまのじゃかもしれないが、当時、こんな「山が動いた」なんてあわとなって消える、と思っていた。

 そして、そうなった。私は土井さんを笑っているのではなく、日本のマスコミの低能を笑ったのだ。

 そして、一番重要なのことは憲法である。私は戦後50年近く「日本国憲法は現状でよい。」と考えていた。また、毎日出身の私(途中から時事へ)は、左の朝日と右の読売に囲まれた中立的イメージが毎日のカラーだったので、さほど毎日には批判的でなかった。

 しかし、戦後(正確には敗戦後)、50年以上も経過すると、アジアの政治も歴史も「変質」した。平成の30年はまさに激動の時代。

 北朝鮮は、平成に入ると、“人工衛星ロケット打ち上げ”と騙しながらミサイル実験して日本を射程に。中国は尖閣列島を射程に、さらに南沙諸島をわがものにして人工島造り。日本漁船を威嚇して日本海域占領。

 戦後、半世紀も経つと、アジアの地政学も大変化している。「自衛隊」で良ければ、それに越したことはないが、実体の国際政治は自衛隊では済まない「軍隊」の時代にきている。

 「J・アラート」とか言って、戦前の“防空壕に入れ”というに等しい言葉だが───数年前、北朝鮮がミサイルで東京を狙うという情報で「都民は地下鉄に逃げろ‥‥」これはもうマンガの世界ではないか。バカげた話だが、これが日本の現実だ。

 慶応義塾大学を経て世界的な国際政治論客として老後も元気に生きている加瀬英明氏(84)は次のように指摘している。

 「日本は“憲法9条さえあれば平和がくる”と考えている人が多いが、国際政治は冷酷なもの。日本国憲法は早くから9条を改正していれば、他国から攻撃されることもなかっただろうし、拉致の問題も発生しなかっただろう。」(月刊誌「致知」令和2年1月号より)

 日本の若者、学生たちにも伝えておきたい。「今の北朝鮮を見ていると、ミサイル攻撃してくるような北朝鮮との外交は、やりようがないではないか。」───と反論されよう。その通りです。

 しかし、歴史は、過去、現在、未来とあるので、50年前の北朝鮮をみると、小泉・安倍(靖国神社への強行参拝)のような歴史を無視した方法論を変えていれば、北朝鮮との平和外交(=拉致外交)のスキマは十分あったはず。それを全部、火遊びにしてしまった。

戦後の化石になりつつある憲法9条

 長文になってしまったが、憲法9条問題で補足しておきたい。

 日本の野党は“自衛隊を軍隊とするのは即戦争”と想像するだろうが、戦争は絶対にしてはいけないが、平和外交も並行して重ねていかなければならない時代(そして、外交はバックに軍事力もたなければ成り立たない)。

 矛盾するかもしれないが、私が今日までマスコミ界に生きて来た結論らしきものです。生まれてきた以上、人間は生きる権利があり、人間の苦悩はそこにある。

 次の、ロシアの学者であり、私の友人、イワン・ツエリツシェフ( Ivan Tselichtchev)氏(モスクワ大学卒、日本の大学教授。著書に「日本を豊かにする3つの方法」=小学館)は、次のように主張している。

 「世界の中で日本だけが憲法9条を後生大事にしているのは、日本四海の至るところでトラブル(紛争)を起こす原因となっている。早く普通の国に戻りなさい。」と忠告している。

 私は、昭和50年ごろ、「戦後の化石、日本社会党」と自著の本に書いた。やがて社会党は分解して倒産した。

 今や、アジア政治情勢は大変化しているのに、戦後の化石「憲法9条守れ」で突っ張るには無理がある。老齢化した「憲法9条」だけ守っていれば、日本の命は尽きる運命となろう。

 総括すれば、この40年間、日本の外交のまずさが拉致問題の未解決と悲劇を生んできた。

 以上のような私の主張を朝毎東、NHKは半世紀、きれいごとばかり並べて政治家(与野党とも)を含めて、拉致被害者を惨死させている。

 上のような、私の憲法9条論を書くと、安倍首相と二人三脚のようにとられるが、「モリ・カケ」、「桜を見る会」、「黒川検察処分の甘さ」、「コロナ禍の巨額ピンハネ予算」‥‥どれを見ても疑惑だらけの政権では憲法改正はほぼゼロ。国民の信用、信頼がほとんどない。

 新政権に変わった後、時間をかけて憲法問題に取り組んでほしい。

令和2年(2020年)7月27日
村井 実

《追加 補足》

 平成10年前後だったと思うが、北朝鮮の金正日時代(金正恩の父)、私は現在の東京・四ツ谷に住んでいた。

 日本人の30~40代の男性群5人(彼らの妻たちは全員韓国人)の中の某氏から突然「新宿の歌舞伎町のはずれの韓国料理店に来てほしい。」と夕方、連絡が入ってきた。

 私は「その時間は空いている。」と伝えて午後4時半ごろ、指定された店に行った。その店の小上がりのテーブルには私の知らない男性が来ていた。

 この日、私に会わせようとした男性だが、名前はアン・ミョンドン氏(30~40代?)。彼は元北朝のスパイ工作員兵士だったが、38度線の国境を越えて韓国へ逃げてきた人物。彼は英雄扱いを受けて韓国で有名になった。

 やがて、アン・ミョンドン氏は正規も手続きをして日本に来日。そこで日本人の5人は「国会と警視庁記者クラブにいた村井さんに会わせよう。」ということで一致して、私はアン・ミョンドン氏に会うことになったもの。(注・アン氏に5人もの日本人男性が同行したのも、在日のスパイ警戒してのこととわかった。)

 彼は片言の日本語はできた。そこで注目すべきは、彼が北朝鮮の工作員だった頃、金正日は「戦争時代、日本は朝鮮人を36万人もさらって日本に連れて行った。今さら5人や500人を人さらいしたって、たいした問題じゃない。」と怒っていた、という。

 500人という数字は、今までに日本から消えた(拉致された)うわさの人数である。36万人という数字も私は初耳だった。

 日朝は、今に今まで平和条約はなく、米国の傘下にある日本は日朝の休戦条約もない。何もないところで発生した北朝鮮の日本人拉致事件。北朝鮮からみた日本へのうらみつらみ、歴史の中で今も続いているのである。

 だから、私は「戦犯を奉る靖国参拝はやるべきでない。」と申しあげてきたのに、戦後っ子の安倍や櫻井よしこが「独立国日本が靖国に参ろうが参らなかろうが、心の問題まで、とやかく言われる筋はない───。」と平然の顔。

 靖国参拝に反対してきた戦前、戦中派の政界のドン後藤田正晴、野中広務、中曽根康弘ら故人は、ヘマをした日朝外交を嘆いておられるであろう。

 日本軍人に連行された国としては今も忘れない。そのとばっちりが拉致家族。被害者にまで及んでいる。歴史の事実は「消しゴム」でも消せない。

(実)