兼高かおるの前に兼高なし、兼高の後に兼高なし

=「品のある語り」、日本人の伝統美の誇り=

 兼高かおるさん(90)が亡くなった(H31・1・5)。昭和34年、TBS系の「兼高かおる世界の旅」に31年間主役で、旅行した距離は地球180周分――。

 今でこそネコもシャクシも海外旅行は格安で地のはてまで行かれる時代だが、昭和34年(私は当時、小樽の高校1年生)といえば、今の平成天皇御成婚の年。敗戦から14年目。

 当時、日本人の海外渡航は、朝日の天声人語(1・11)で言うように、渡航自由化は番組開始から5年後。日本脱出は、たいへんな時代だったことが想像される。

 当日の天声人語の言葉を拾うと、「品のある語り」、「番組が好評だったのは高嶺の花だったことも大きい」、「そんな時代に辺境の地から辺境の地から笑顔を届ける兼高さんは、あこがれの的」などなど‥‥‥。

 その後、ジャーナリストのはしくれになった私も、天声人語がいうように兼高さんの「品のある語り」は天下一品だった、と思う。

 何よりも「旅行」と「観光」と「政治」をミックスした「兼高ワールド」は、当時も今も「兼高の前に兼高なし、兼高の後に兼高なし」だと思う。

 そういう偉大な日本の映像パイオニアのジャーナリストを失ったにも拘わらず、日本の新聞、テレビの彼女に対する扱いが意外に地味だったことに私はビックリで不満だ。私は兼高さんに生前、文化勲章を与えてもよいほどの人材だった、と思っている。

 「兼高死す」のニュースは、時代があまりに「過去形」すぎるから、若者たちにとってそれほど影響を受けていないのかもしれないから、やむを得ない面もある。

 しかし、時代背景は、日本敗戦と日本情報社会の黎明期(白黒テレビ普及)にあって、日本人に向かって兼高さんが発信した地球旅行は、当時の日本人、我々若者に、どれほどシビれる映像を見せてくれたことか、はかりしれない。

 島国日本(人)にとって兼高さんの地球案内は、国民を地球一周の気分にさせた。そして、終始、日本語の美しさを世界にふりまいてくれた。その微笑も心に残る。

 さらに、民放のTBSが31年間も続けた「兼高・世界の旅」の放送の功績は大。本来はNHKが全国版放映をしてもよいほどの高等な地球映像であり、そこらへんの旅行案内人とは比較にもならない。

 まして、彼女は英語が達者だったから(50年後の今は、どこも横文字文化は当たり前だが)世界の至るところで積極的に走り抜けた。

 また、兼高さんは孤軍奮闘して極貧の予算と、兼高さん一流の頭の中に描いた巨大な取材作戦で珍しい映像を次々と日本に送り込んだ。

 有名になった故・J・F・ケネディ大統領の取材も、この中から生まれており、彼女の流暢な英語が生きている。

 活字のブンヤ稼業で走ってきた私たちにとって兼高ワールドは毎週、目を見張る映像を楽しませてくれた。兼高さんほどエレガントに話す旅行ジャーナリストを見たことがない。日本人の誇りでした。

 数年前、NHKの「うたのおばさん」で知られた安西愛子さん(100)が亡くなられたが、「日本語の美しさ」、「日本の童謡のすばらしさ」を生涯訴えていた。

 もし兼高さんのエレガントな日本語を聞いたら、安西さんは何と答えただろうか。生前、双方に聞いてみたかった。

平成31年(2019)1月15日
村井 実