柩を覆っても不変「日本救世主」中曽根康弘さん

 中曽根康弘さんが11月29に死去した。101歳でした。私が毎日新聞記者として最初に配属されたのは群馬県でした。

 当時の衆院の旧群馬3区は定数4人区で、自民党は中曽根康弘、福田赳夫、小渕恵三、そして社会党の山口鶴男が指定席。

 そこで私が半年後、前橋市から高崎市に移動した際、当時、中曽根さん、福田さんは、それぞれ派閥の首領(=親分)、小渕さんは田中派の陣笠代議士。

 そうした群馬県の上州戦争の中で、中曽根さんと福田さんは日程を変えて月に1回程度、高崎市内の料亭の2階で「今月の国会の動き」なるものを勉強会のような形で我々地元の若い記者連中(朝毎読、NHK、上毛、東京、サンケイ)を呼んで歓談してくれた。

 地元の一流料亭であったが、芸者を出すわけでなく、酒はおみき程度。

 そんな少人数の会だったから、この時代の中曽根、福田の個別の国会報告会は、中央の政局、地元上州の経済産業政策、個人的趣味まで‥‥‥我々新米記者たち(20代~30代)にはたいへん勉強になりました。

 私の記者スタートが上州でなかったら、このような中曽根、福田の両親分のような大物政治家とめぐり会えなかったでしょうから、人生の中ではラッキーな記者スタートでした。

 そこで上州取材の中で生涯、忘れられなのは、田中角栄首相誕生の際、地元群馬県民は福田首相の誕生を期待していたが、中曽根さんは田中派にまわったということで、その後、国会では田中角栄首相が決まった。

 やがて次にやってきた衆議院の高崎会場での演説会では、中曽根さんの登壇になると、ヤンヤの怒号の渦。それでも中曽根さんはヤジをものともせず、声を中断することなく、大声で自説をとうとうと述べた。

 私は記者生活の中で、これほどすごい恐ろしい演説会を見たことがない。私は記者席として一番前の中央席を指定されていたから、この時、中曽根さんの背後の幕から突然、日本刀などを切りかざしてテロのような人物が出てくるような異様な空気を感じてヒヤヒヤでした。

 元来、上州という土地柄は関東の中でも、その昔、関東八州の中心地。役人の治めない空地帯だったことからヤクザ者が多く生まれた、と先輩記者から聞かされていたから、上州暴力団は普通じゃない、という思いが強かった。
だから、私が群馬に来て驚いたのは、国定忠治、大前田英五郎あたりのヤクザ親分が観光地のみやげ店などで英雄扱いされて、後世に名を残しているのも上州らしい。

 中曽根さん死去のあと、朝日新聞は次のような一分を掲載した。

 「神戸の朝日新聞阪神支局を襲った赤報隊は記者1人死亡、1人重傷。中曽根首相が靖国参拝を1度きりでやめたことに対して、赤報隊を名乗る脅迫状を送りつけられることもあった」。

 私も赤報隊の件は知っていたが、脅迫状のことは知らなかった。海軍主計少佐として戦場の駆り立てられた中曽根さんは、そうした件についてはほとんど語らなかったし、上州人としては腹がすわっていたと思う。

 昭和49年、同50年当時、永田町の国会議事堂は角栄首相時代。私は東京の記者生活に戻ってから時事通信社に移り、警視庁記者クラブから国会担当記者。

 中曽根、福田取材は、両先生とも予想通り首相になったことで、私と両先生との人脈のありがたさをヒシヒシと感じました。

 それにしても中曽根さんの最大の貢献度は、国鉄、電々、専売の3公社を民営化したことに尽きる。
戦後日本の救世主だった。

 国鉄を例にとると、当時、1日の赤字利子だけで36億円(昭和61年)、翌年の1日の赤字利子だけで37億円、という目の玉が飛び出るような天文学的な巨額な赤字。当時の国鉄の累積赤字は31兆円~32兆円。

 そこで中曽根政権は、昭和62年4月から国鉄をJRと改称して全国を6分割。さらにJR貨物を含めて7分割のJRに。

 その結果、国鉄解体によって、旧国鉄の土地などを売却して、赤字を21~23兆円ほどに減らし、旧国鉄の最終赤字は7~8兆円ほどの軽量に戻った。

 これらの功績は当時、中曽根さんでなければ出来なかった。

 その当時、私は経団連の大物、土光敏夫会長と交流を持っていた。土光会長の口ぐせは、日本財政の赤字を減らすため「行政改革」を唱えていたので、中曽根ー土光ラインの行政改革は「あうんの呼吸」であったから、2人の力が国鉄解体からJR誕生となったもの。

 当時の社会党の土井たか子委員長は、国鉄支援をバックに「国鉄解体反対」を主張していたが、あの時代、日本社会は、とんでもない政党と、とんでもない労組をかかえていた、ということを後世の若者たちに伝えておきたい。

 さらに忘れてならないことを付け加えておこう。中曽根さん死去で新聞など見ると、首相になった後、「戦犯を合祀している靖国神社を参拝したことで、中国や韓国などから批判されたから、靖国参拝はその一度限りでやめた」としか解説されていない。

 しかし、ある日、私と二人の会談で中曽根さんは、「首相になったので、一度は戦死した人たちにお参りしなければ、という気持ちだった。しかし、あれほど中国や韓国の反発を受けるまでやる必要はない、と思ったので次からやめた。隣国と仲よくするためにも平和であるためにも、靖国参拝はやらないほうが良いと思う」と。

 上のフレーズは何でもかんでも靖国一辺倒の安倍首相と明らかに違う。

 歴代のアメリカ大統領は大統領時代をトレースして、後世に歴史の教訓を残していた。日本では中曽根さんが現役でも引退後でも多数の政治著書を残し「政治家は歴史の審判にさらされなければならない」という名文句を残した。

 昭和政治は太平洋を超えて、アメリカのワシントンだけを眺めていればよかった。しかし、現代政治はアメリカを頭(かしら)にして、アジアでは中韓露から北朝鮮まで主役の国際舞台に踊り出て、政治が複雑化した上、地球は国境を外(はず)されて、ますます難局である。

 佐藤栄作首相は自ら「柩に覆って人間の価値定まる」と言って世を去ったが、中曽根さんは国民から「柩を覆っても不変の日本救世主だった」と日本政治史の中で語り伝えられるであろう。

 戦後の首相の中で中曽根さんは最もバランス感覚に優れ、頭は柔構造だった。文化人で漢詩を好み絵筆も達者。ロマンの男だった。

 国会議員会館の裏に防火用水(深水4米)があったが、夏になると私の友人のNHK記者と一緒に昼休み、この清水の防火用水をプールに見立てて泳いでいたら、そこでよく中曽根さんとバッタリでカッパ笑い!中曽根さんは奇(き)をてらうような人ではなく、全く正反対の平凡な陽気な人柄だったことが私の心に強く残っている。

 今、中曽根政権だったら、何をやっただろうか。今の政治家諸君は、自民も野党も国家観は、歴史観なく、未来観なく‥‥‥中曽根さんは上記を兼ね添えた巨人でした──。

令和元年(2019年)12月
村井 実