- 赤木は海が好きだった。
- ヨットに乗ることが大好きだった。
- 青春時代の夢は船乗りだった。
- 昭和35年は赤木日活映画の全盛期。
- 命日には今も女性ファンが墓に献花。
- 野性の赤木は今も日本人の魂を揺さぶる。
君は赤木圭一郎を知っているか?日活のスターだった赤木は、日活撮影所内でゴーカートで壁に激突。昭和36年2月だった。1週間後に死去。21歳。
私は当時、小樽の高校2年生。午後、雪降る下宿に帰って、ラジオのスイッチを入れると「赤木の死」を知った。わずか1年間で13作品を残して散った。
裕次郎、小林旭に次ぐ第3の男として日活をしょって立つとみられていた。私は落胆した。
当時も今も芸能人は星の数ほどいるが、私の青春時代から今まで男の「孤独」と「哀愁」が似合うのは、やはり赤木しかいない。さらの男らしい野性の魅力。
平成19年5月、生前、赤木のロケ地でもあった千葉県房総半島の鴨川市で、赤木没後50年に向けて偲ぶ会主催の写真、遺品、サイン、グッズ展があった。
この会場に入った瞬間、赤木の上映ポスターが満載に飾られ、私は一瞬、昔の高校生の私に逆戻りした感覚に襲われた。
会場には50~60人いたが、年齢は男女とも50代ぐらいが多かった。若者もいた。その中で知らない者同士の間から、中年男性がこの日の偲ぶ会のために沖縄から飛行機でやってきた──といって、同年配に近い私に寄ってきて名刺を差し出した。
名刺を見ると、琉球大学の教授。私はビックリした。このために沖縄から千葉ま・・・私はうなった。
会場では私は若者とはほど遠いおやじだったから名刺を差し出すのをためらっていた。しかし、沖縄の教授から堂々と名刺をいただいたので、私も大学講師の名刺を出した。すると沖縄の教授もビックリ。「ファンとはいくつになってもファンだ」とお互いに大笑いになった。
こんなところで冗談を言うつもりはないが、日本の若者に告ぐ!LGBTなんぞにのめり込まないで「男の美学」の象徴、赤木圭一郎がこの世にいたことを忘れないでほしい。
* * *
ここに相馬尚文書「輝ける分水嶺」──1960年の日本(赤木圭一郎の時代)という本がある。相馬氏は昭和20年生まれで東大法卒。大学1、2年次は安保闘争もくぐってきたが、サラリと総括して一般学生生活。卒業後、金融界に入って上の異色の本(平成17年初版)を発行。
相馬氏と私は同世代であるが、赤木映画の本質は「哀愁」であり「孤独」というのも、私と波長が合う。早世したから国民的大スターとはなりえなかったが、赤木がもし長生きしていれば、日活映画が消えることもなかった。赤木亡きあと、映画界は東映のヤクザ路線に持っていかれた。
相馬氏は言う。「私からみれば、彼は最初は年上の兄貴。途中から同世代の友人。その後の大部分は年下の後輩であり、今や息子のようなものとなってしまった。
彼があたかも北極星のように、私の変化、老化をいやおうなく突きつけてくる。だから私も目をそらすことなく、この永遠の青年を見つめざるを得ないのである」
この本の内容は3分の2は敗戦後の日本復興の経済、文化、世相、などをあげて解説。
一方で氏は、昭和35年当時の日活アクション映画について「赤木を主役にして、取り巻きの黒幕は本当に悪人でないケースが多い」と作品の質の高さをほめる。
そして当時の昭和35年アンポ闘争を参考に、日本は岸政権に反対して(自衛隊も投入せず)岸内閣が倒れても、「革命」もなく、自民党政治が続く自由な国が続いた──この空気は日活アクション映画にも相似する、と説く。政治をスター赤木にからめて1冊の本にしたことがおもしろい!
それにしても当時の岸アンポ政治と赤木アクション映画をブレンドして、我々読者に見せてくれた筆力はさすが東大卒のアタマ。相馬氏は赤木を愛し、同心と青春のエネルギーを私たちに与えてくれたことに感謝する。
令和元年(2019年)7月
村井 実